掌編『あの帽子』

 圭子が長年付き合っていた彼は、言葉の外で語るタイプだった。何年かに一度、年賀状を送ってくると「元気ですか、僕は生きています」と冗談なのか本気なのか、あまりしゃべらないから分からない文面ばかりだった。
 今年の冬はすごく寒くて、圭子のアパートの玄関ドアは毎晩凍り付いた。年賀状には「口地勇三」という名前が小さな字で端の方に書かれていて、窓に風が吹きつける冷たい音の中、圭子はごつごつしているのに繊細な勇三の手を思い浮かべた。いま勇三は遠いところを転々としながら仕事をしている。
 一人分の昼食を簡単に用意すると、タンスの横に掛けてある水色の麦わら帽子が目に入った。いつもの炊事のにおいがするけれど、今日は年賀状を見たせいか、勇三があの帽子をかぶっていたことが思い出される。
 外出するとき、圭子はいつも勇三と絡みつくように腕を組む。
「恥ずかしいよ」
 顔を赤くする勇三も、その奥には常にまんざらでもない微笑みが隠れていた。勇三は街でのデートでも登山でも、ビーチでも、ジーンズにシャツという格好が多くて、圭子はそれをからかいつつ気に入っていた。
「かき氷食べよ」
 この日のために新調した水着を着て、圭子は勇三を海の家へ誘った。砂浜に昼前からずっと座って海を眺めていたのだけれど、二人とも特に話すでもなく、波の寄せる音や他の家族連れ、カップルの笑い声を聞いていた。
 うなずいて立ち上がった勇三は、ジーンズの砂を払った。その砂が圭子の口に入ったので「うわ、やめて」と笑いながら言うと、勇三も「ごめん」と小さな声で謝った。
 海の家には客が大勢いて、圭子たちの注文したかき氷が出来上がるまでかなり時間がかかった。その間、圭子は一度トイレに行って、戻ってくると、勇三がカウンターの脇に掛けられていた麦わら帽子を手に取っていた。
「これ買おうかな」
「水色? 珍しいね。カッコ的にも勇ちゃん似合うかも」
 たぶん勇三がこういうものを自分から選ぶのも珍しいので、圭子も賛成した。かき氷ができてきたとき、勇三は麦わら帽子の代金も支払って、さっそくかぶって外へ出た。
「なんか、少年、ボーイみたい」
 この日はTシャツだったから、勇三がすごく子どもっぽく見えた。
 勇三はこの帽子が相当気に入ったのか、それからは出かける度にかぶっていた。水色に着色してあるので、秋の晴れた日にもよく溶け込む。
 湖へドライブに出かけるときにも、勇三は麦わらを手放さなかった。運転中もかぶったままなので、圭子は「邪魔じゃない?」と笑ったけれど、勇三はしばらくそのままにしていた。でも、バックで駐車するとき後ろが見えなくて、ようやく脱いで「ちょっと持ってて」と圭子に渡した。
 このときは二人の友だちも一緒で、集まって鏡のような湖面を眺めた。友だちははしゃいだ声を上げていたけれど、圭子と勇三はまた少し高いところに座って、ずっと水面の小さな動きを目で追いかけている。
 友だちのひとりがそばへ来て、圭子の顔を見て言った。
「圭子、今日がんばってるね。――お化粧」
「まあね、私もちょっとみんなを見習おうかと思って」
 圭子はいつも勇三がするように、鼻の下をこする。
「じっと落ち着いてたり、癖も似てたりして、なんか二人って兄妹みたい!」
「そうかな」
 勇三との距離が縮まったような気がして、圭子は嬉しかった。勇三を見ると、恥ずかしそうに唇を結んでいたから、圭子も口元を厳粛にしてみた。
 お開きの時間になって、圭子は先に坂を下る勇三の腕にしがみついた。風が吹いて、勇三の麦わらが飛ばされて二人の歩いていく先へ転がっていった。圭子がぱっと腕をほどいて走ると、
「なんだかおかしいよ、子どもみたい」
 勇三が笑いながら言った。声を出して笑うことが少ない勇三だから、圭子は勇三が面白がることならなんでもしたい気分だった。わざと身体を回転させたり、足を交差させたりして踊るように麦わらを拾うと、勇三は
「子どもじみてる、おかしい」
 と言って顔を空へ向けて何度も笑ってくれた。拾った麦わらをかぶってみると、圭子にはひどくブカブカで顔も見えないほどだった。また勇三が笑った。
 車まで圭子が麦わらをかぶったままで、全然周りが見えないので、勇三が手を取って連れて行ってくれた。内側まで水色が透けていて、陽射しが直接当たっていたからまぶたが水色になったみたいだった。
 帰りは途中まで友だちの車と一緒に走った。信号で停車したとき、勇三はバックミラーで後ろの車を運転する友だちを見て、
「口紅、よくないよ」
 と言った。圭子は一瞬、何のことか分からなかったけれど、自分も友だちのように口紅を塗っていたのを思い出した。ふき取った赤いティッシュペーパーは自分の鞄に入れた。
「気に入らなかった?」
 勇三は返事をせずハンドルを握ったまま、小さく首を振った。信号が変わると、友だちはどこかへ寄ることにしたのか、右折車線に出てきて片手を挙げて曲がっていった。
 同じ部屋で暮らしていても、圭子は勇三のことをいつも見つめている。仕事で疲れて帰ると、勇三はもっと無口になった。それでも圭子のことを見つめ返してくれる瞳は優しくて、圭子の口は滑らかになった。
「今度どこ行こうか、またのんびりしたいね」
 勇三が遠くへ行くことに決まった日は、空が抜けるほど晴れた日だった。準備を手伝って、麦わらを渡そうとしたけれど、勇三は圭子に持っているように言った。
 数か月、一年、二年と経つ間に、勇三とは手紙のやり取りをするだけになっていった。圭子も勇三も、手紙で「会いたいね」と書き続けた。
 勇三からの年賀状は、こう続いている。
『元気ですか。今年は本当に寒いです。ひどいことになるんじゃないかな。圭子は大丈夫ですか? ちゃんとしてるか? こっちは何とか元気です。また会いたいですね。春が待ち遠しい』
 いまも晴れた日の空は美しい水色で、勇三の笑い声を忘れ始めた圭子の目にはまぶしすぎる。

                                   (了)

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